華氏451度を読んだ
華氏451度を読んだ感想を。
概要
舞台は、情報が全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。そこでは本の所持が禁止されており、発見された場合はただちに「ファイアマン」(fireman ― 本来は『消防士』の意味)と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕されることになっていた。(表向きの)理由は、本によって有害な情報が善良な市民にもたらされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐためだとされていた。密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成され、表面上は穏やかな社会が築かれていた。だがその結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた。
そのファイアマンの一人であるガイ・モンターグ(Guy Montag)は、当初は模範的な隊員だったが、ある日クラリスという女性と知り合い、彼女との交友を通じて、それまでの自分の所業に疑問を感じ始めた。ガイは仕事の現場で拾った数々の本を読み始め、社会への疑問が高まっていく。そして、ガイは追われる身となっていく。
感想
最初の一文である「It was a pleasure to burn.」で有名な小説だが、実際に読んでみるとさほど面白くなかった。というのは、物語の基盤となるディストピアの描き方に不満を感じたからだ。より具体的にいえば、なぜこのような社会(本は読むべきではない、燃やすべきという)が形成され得たのか、どのような目的があったのか、もといあるのか、だれが統治、もとい社会を維持させているのか(組織について)、といった部分の描写が欠落していたからである。また、(これはこのようなディストピアを描く小説によくあることだが)主人公が現行の社会体制に不満、疑問を抱く過程がすっ飛ばされており、突然の彼の考え方の変化、転換には論理の飛躍を感じざるを得なかった。「Fire man」として愚直に職務に励んでいたはずの主人公が、突然自身の職務に反旗を翻すのは、あまりに唐突であり不自然に感じた。確かに反旗を翻す前から、彼は本を隠し持つようになっていたので、そこから考えれば不自然ではない、という人もいるだろう。しかしそうであるならば、本を隠し持つようになるようになったプロセスまでをしっかり書いてほしかった。突然取ってつけたように、「いや、彼は前々から本を隠し持っていて、反乱を起こす潜在性を持っていたのだ」といわれても私は納得できない。また同様に、彼は本と一緒に焼死する老婆をみて衝撃を受ける場面があったが、これも不自然に感じた。何故なら、おそらく「このように本を燃やされるくらいならば自分も焼死する」と考え行動するような人物は過去それまでにも存在していたはずであり、且つ彼はそのような人物に直面する機会が幾度となくあったはずであると考えられるからだ。物語全体を通じての「Fire man」の出動回数及び、当該場面における隊長のあっさりとした決断を考慮すれば容易に想起できるだろう。
さらにいえば、何故本を読むこと、保存されることが禁止されているのかの論理的な根拠、妥当性が私には理解できなかった。察するに、政権を維持(小説中の出来事に即していえば戦争の継続)するために、大衆から考える力を奪うことが最終的な目的であり、そのために本を奪うというロジックが組まれているのだと思うが、これはあまりに未熟である。考える力が読書によって育成されるという考えは確かに否定できないだろう。しかしながら、主人公が最初に出会う少女のように、その力は主に教育によって要請されると考えるべきだ。つまりわざわざ本のすべてを禁止し焼却するよりも、考える力を奪うような教育を全国で行えばそれで済むはずである。にも関わらず、同書のなかではそのような教育の現状についての言及は特段なく、さも本がなくなったことですべての国民から思考力が奪い取られた、かのように述べている。やはりこの点は不自然と感じざるを得なかった。
結論として
こんなにも同書に対して不満が募ってしまったのは、直前に「1984年」(ジョージ・オーウェル・1949年)読んでしまっていたからだろう。トランプの誕生、並びに同政権の高官が「altanative Fact」と述べて以来、アメリカでよく売れているようだが、売れる理由がよくわかる。明らかにこちらの方が完成度が高いからだ。つまり結論としては、私としては「華氏451度」を読むよりも「1984年」を読むべきだと勧めるということだ。
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